##### 一年前だった、退職自衛官による宇都宮市の連続爆発・爆死事件で考えた弁護士商売の悪影響と社会的危険性 #####
***>>2017-10-06(金曜日)11:24_[これからの記述範囲の開始時刻]>>***
宇都宮市連続爆発事件 - Wikipedia http://bit.ly/2z2n5sE
上記のWikipediaページで確認をしたのですが、2016年10月23日発生の事件でした。自分の記憶では1年半から2年近く前と思っていたので、同じ10月とはいえまる一年の経過もないというのは、ずいぶん意外に感じました。
宇都宮の元自衛官爆死自殺は迷惑な自殺だが同情したくなるほど背景がエグいと話題に - Togetterまとめ https://togetter.com/li/1041034
この事件は情報が多くまとめサイトのようなものもいくつかあるようです。上記の記事もその一つですが、少し目を通して思い出すものがありました。自衛隊の定年退職後に、娘が精神疾患になったという話ですが、何故かこの部分は、私の記憶から抜け落ちていました。
私の平成4年の傷害・準強姦被告事件も、被害者安藤文さんの父親安藤健次郎さんが、銀行を定年退職しこれからのんびり出来ると考えたいた矢先、と専属の取調官だった谷内孝志警部補に聞かされたことが、特に印象深い取り調べ状況の一つとなっていました。
被害者安藤文さんの父親は弁護士だと、被告訴人多田敏明に聞かされたいました。被告訴人多田敏明と個人的に話をするようになったのは、彼が被告訴人東渡好信の大型車に同乗して、茨城県古河市の青果市場に来たことがきっかけでした。山三青果の仕事です。
現在は記憶も薄れていますが、被告訴人多田敏明に安藤文さんのことを話したと言うか相談したのは、平成3年の12月に入ってからで、上旬から中頃であったと思います。被告訴人大網健二に同じ話をしたのと同じ頃でした。古河の青果市場で被告訴人多田敏明と話したのは11月中頃のことだと思います。
被告訴人東渡好信が、山三青果の積み込み作業でベルトコンベアに指をはさんだと言い出したのが始まりでしたが、その現場にも私は居合わせていました。夜の積み込み作業でしたが、山三青果の仕事では、昼過ぎに出発する時期と、夜の競りのあとに出発する時期がありました。遅い時で出発は21時ころでした。
被告訴人多田敏明が被告訴人東渡好信の手先となって、私に誤解や混乱を与える情報を吹き込んだり、安藤文さんとの関係で情報を収集する工作活動に従事していたことは、確実視されるものです。
安藤文さんの元彼氏を装い事実の既成化に一役買った被告訴人安田繁克も同じかと思います。被告訴人多田敏明と被告訴人安田繁克は個人的に親しいだけではなく、平成4年2月1日の不審な行動で、計画的共謀共犯関係の一端を明らかにしています。
その平成4年2月1日の深夜には、被告訴人安田繁克が私に対して、安藤文さんとの交際を明確に否定しながら、安藤文さんの父親については代議士、母親については塾の先生というようなことを、やや曖昧な言葉を使いながら印象づけていました。
被告訴人多田敏明は、もともと市場急配センターの市内配達の運転手で内灘コースを担当していたようです。内灘コースは羽咋市方面も含まれていたかと思います。これは、金沢中央卸売市場の仲買による青果物の配達の仕事でした。
この仲買の青果物の配達は、午前11時頃に出発の1便と、午後2時頃に出発の2便がありました。私は昭和61年と平成3年の2回この仕事をやりましたが、2回とも受け持ちは片町・小立野コースでした。主に、金沢駅からは離れていますが金沢市内の繁華街、中心部から卯辰山の辺りまでの範囲でした。
平成3年の時は全体的な荷物の量も多くなり、運転手の数も担当のコースの数も増えていたためと思いますが、1便と2便は同じコースになっていました。
昭和61年の市内配達の時は、2便は荷物の数も配達先の数も少なかったので、自分の受け持ちコースが中心にはなっていたと思いますが、小口の荷物をあちこちに配達していました。野々市町や羽咋郡志賀町まで行くこともありました。
2便でよく行ったと記憶にあるのは、金沢市横山町の東京ストアーでした。これは金沢地方裁判所にも近いですし、金沢地方裁判所の付近が通り道になります。普段の片町・小立野コースでも金沢地方裁判所や金沢地方検察庁の付近は通り道で、配達先もありました。
昭和61年に市内配達の仕事をしたのは8月の25日頃から11月一杯ぐらい、この市内配達は免許証の違反点数を元に戻すのと、大型免許の一発試験が目的でした。
11月26日が誕生日で、その前日か翌日か忘れましたが、その日に大型免許を取得できました。一発試験で13回目か9回目のどちらかだったように思いますが、そういうのもはっきりと思い出せなくなっています。
大型免許を取得してからは、金沢市場輸送で6トン保冷車の仕事をしたり、大型平ボディ車で浜田漁業金沢工場のミール移動の仕事をするようになりました。ミールとは魚粉のことで、イワシを主原料としています。
大型免許の取得が出来たものの、大型保冷車の空きがなかったので、そのような仕事をしていたのです。YTに誘われて昭和62年1月の中頃から3月の中頃の2ヶ月間は、中西運輸商に戻り、そこで大型車や、大型保冷車にも乗務していました。
中西運輸商にいたのは、一度目が1年3ヶ月、二度目が2ヶ月だったと記憶しています。昭和62年4月には、再び金沢市場輸送に戻っていましたが、配車係だった本恒夫に、大型保冷車の新車をいれるので戻って欲しいと誘われてのことでした。私の自宅アパートの前で、話をしたことを憶えています。
金沢市場輸送に戻ってしばらくして、私はいすゞの新車の保冷車、石7599号に乗務しました。当時は石ナンバーでしたが、その1,2年後に石川ナンバーに変わったと記憶しています。
7599号に乗務したのは昭和62年4月の20日から終わり頃だったように思います。新車での最初の運行が、四国の愛媛県松山市に金沢中央卸売市場からタケノコを運ぶという仕事でした。これに、私は強引に妻と前年の6月に生まれていた長男を同乗させて出発しました。
誰に借りたのか思い出せないのですが、カメラを持って出かけ撮影をしました。デジカメ以前にカメラを買ったのは小学校の6年生の頃、母親が買ってくれたものがありましたが白黒写真で、高校に入った頃には全く使わなくなっていました。
夕方前に金沢を出発し、翌日の早朝には松山市内に着いていましたが、荷降ろしの後、徳島市に移動し、翌日の午後にニンジンを積み込みました。大阪か神戸までフェリーでしたが、フェリーに乗った時はまだ明るい時間でした。ニンジンの行き先は、東京都内の市場で、4ヶ所降ろしだったと思います。
記憶にあるのは世田谷の市場で、そこで撮影した写真もありました。最後の卸先が千葉県の浦安に近い、葛西の市場で、到着した時点で夜になっていたと記憶にあります。すでに荷降ろしの完了前には、電話連絡で次の帰り荷の仕事が決まっていたのだと思います。
翌日の早朝には、千葉県房総半島の犬吠崎にいました。農家のようなところに白菜を積みに行ったのですが、場所を探しているうちに観光地のような犬吠崎に出て、そこでも写真を撮影し、めったに買ったことのないイカ焼きを買ったようなことも憶えています。
白菜を積み込んで出発し、最初に向かったのは富山県の高岡市の市場だったと思いますが、その時に初めて茨城県古河市内で、国道4号線を横切ったという記憶があります。
時刻は、10月8日13時49分になっています。また、ここ何日か中断をしていたと思います。茨城県古河市について書いていたところですが、前々からその周辺、栃木について書いておきたいことがいろいろとありました。
古河市では、そのまま国道4号線の交差点を横切って、大きな川沿いの道を走り、栃木県佐野市で国道4号線に出ることが多かったと思います。
Googleマップで確認をしたところ、古河市から佐野市に出る道は、国道ではなく、大きな川だと思っていた土手沿いは渡良瀬遊水池のようです。その手前に割と大きな橋を渡ることも記憶にあったのですが、橋で横切るかたちになる川が、名前は聞いたことがある渡良瀬川だと初めて知りました。
他に移る前に書いておきたいことですが、7599号での初めての運行で千葉県の銚子から戻った後、一月ぐらい経った頃だったと思います。前回と同じように、土浦市の方向から古河市に入り、国道4号線を右折して、しばらく走った陸橋の手前に、古河市の青果市場がありました。
それが初めて古河市の青果市場に行った仕事でした。その時も妻子を同乗させていたような気がするのですが、はっきりとは思い出せなくなっています。
旧道になるかと思いますが、国道4号線で小山市方面に向かい、古河市の町らしいところを抜けた辺りに大きな陸橋が見えて、その陸橋の手前の交差点を右折してすぐのところにあるのが青果市場でした。陸橋は東北新幹線のものだったと思います。
この初めて古河市の青果市場に行った時は、同じ金沢市場輸送の4トン保冷車が先にいました。このことも印象深く記憶に刻まれるかたちとなったのですが、ほとんど会話をしたことのない運転手でした。
運転手というより喫茶店のマスターという雰囲気で、ジーパンのようなエプロンをいつも着けていました。小柄でしたが、髭面で、教科書などで見た日露戦争の乃木希典元帥の姿に似ていると思っていました。
割と長く金沢市場輸送で4トン車に乗務していたようにも思うのですが、長距離専門ではなかったようにも思います。会社にいた時期は、被告訴人梅野博之とも重なっていたはずです。無口でもくもくと仕事をするようにも見える人でした。
はっきりしたことはわかりませんが、被告訴人梅野博之と同じく、市内配達の社員で、本恒夫に頼まれて、ちょくちょくと長距離の仕事をしているように見えました。二口町に金沢市場輸送の事務所が移ってからは、そこで姿を見たという記憶はありません。
金沢市場輸送で、茨城県や栃木県に行く仕事は多くなかったです。東京も東京ストアーの定期便がありましたが、よく行くのは4月の終わりから7月の初めの、タケノコとそれに続く金沢港のスルメイカの時期に集中していました。
東京は帰り荷も乏しくて、空車で帰ることも少なからずありました。前に書いたことがあるはずですが、東京ストアーの仕事は、三協アルミの仕事とセットになっていて、卸先の配送センターは、当初、埼玉県桶川市だったものが、茨城県水海道市に移りました。
状況が変わったのは、古河青果市場の山三青果で定期便の仕事が始まってからでした。これは平成2年の12月に入ってからのことだったと思います。実際は、年間で青果の荷物の薄い時期もあったのですが、金沢市場輸送では、その山三青果の定期便にあわせ、行き荷の2つの定期便を始めていました。
だいぶん前に書いたことがあると思いますが、日通高柳支店の埼玉・千葉の定期便、トナミ運輸の栃木への定期便でした。小松市と金沢の2ヶ所積みだったようにも思いますが、同じトナミ運輸の金沢の仕事では、同じ頃に、仙台便と福岡便もやっていたので、区別がはっきりしなくなっています。
栃木の卸先もトナミ運輸の支店か営業所になっていたと思いますが、国道4号線のバイパス沿いで、宇都宮市内の10キロか15キロほど手前で、住所も郡部になっていたような気がします。この仕事だとほとんどは、そのまま古河市の青果市場に向かっていたはずかと思います。
雑貨の定期便というのは、集荷のホーム作業が全て終わってからの出発となっていました。小松市を出てから金沢に立ち寄って、積み込みをすると金沢を出るのは23時を過ぎていたようにも思います。栃木に着くのも、ほとんどが明るくなった早朝の時間帯であったように思います。
山三青果では、午前中の11時頃にも青果物の積み込み作業がありました。夕市とも呼ばれていたように思いますが、それがない時期もあって、その時は昼過ぎに古河を出発していました。2月の中頃もその時期だったと思います。まだ、夕方の明るい時間に、富山の市場に着くことも、稀にありました。
古河の定期便の基本は、毎日、大型車2台で、富山、高岡、金沢、福井の市場降ろしの青果物を積み込んでいました。2箇所ずつが基本となりますが、行き先の荷物の量も異なるので、1箇所と3箇所になることもありました。
大型車1台だと4ヶ所降ろしになります。福井分は、基本的に金沢から4トン車に中継に出すことになっていて、この中継をやっていたのが、被告訴人多田敏明と被告訴人梅野博之です。
中継の荷物が多すぎて、4トン車では積みきれないと判断した時は、そのまま被告訴人多田敏明を大型車に同乗させて、福井に行っていました。あるていどまとまった量の荷物だと積替えも面倒なので、そのまま同乗させて福井に行っていましたが、被告訴人梅野博之を同乗させたことはなかった気もします。
それは、市場急配センターに移ってからのことになりますが当初は金沢市場輸送の仕事で、税金対策のため市場急配センターの請負というかたちにしていたのは、浜田漁業金沢工場や北陸ハイミールのイワシの運搬の仕事と同じだと聞いていました。
ずっと前に書いたことがあるので、Twilogから調べることも出来るかと思いますが、その山三青果の仕事は、もともと金沢港の近くに会社がある日栄運送の仕事で、金沢市場輸送が奪うかたちになって、恨みも買ったような話を聞いていました。
日栄運送は、九州の青果物と長野のリンゴをメインの仕事にしていると聞いていました。九州では、その日栄運送の下請けで青果物を積むことが多く、特に多かったのが、長崎県の長与のみかんの仕事でした。
ずっと前に書いたことがあると思いますが、長野のリンゴも一度だけ、4トン車で飯田市から滋賀県の大津市まで運ぶ仕事をしたことがありました。Uという市内配達の運転手を同乗させた運行でした。イワシのダンプにも乗務したOMの息子の友達で、一緒に入社した3人の一人でした。
日栄運送には、現地の責任者のような人がいて、名前は忘れてしまいましたが、熊本県の玉名市辺りの人と聞いていました。熊本県の植木の青果市場でも顔を合わせていましたが、冬のみかんの時期は、長崎県の長与で泊まり込みをしているような話でした。
まだ、山三青果の仕事を始めるずっと前だったと思いますが、九州で日栄運送の仕事をしなくなって、入れ替わりのように始まったのが、富山市の池田運輸の仕事でした。そこにも現地の駐在員のような人物がいて、名前は忘れましたが、けっこう若く、私より年上でしたが、20代だったように思います。
池田運輸では、福岡県の高田町の農協を拠点にしていたようです。郡部だったと思いますが、熊本県に近いところでした。その高田町でも、青果物を積みましたが、ミカンは、佐賀県の唐津市からが多かったと思います。他にも、白木町とか、ミカンの箱に書いてある地名のところに行っていました。
富山市の池田運輸は、富山市の市場の近くでトラックを見ることがありましたが、不思議に思ったのは、富山では仕事のやりとりがなかったことです。金沢市場輸送の行き荷の大半は、富山県内での仕事だったのでなおさらそう思ったのですが、池田運輸が普段何を運んでいるのか聞いたこともなかったです。
池田運輸のトラックは、単色のカラーで地味なデザインでした。色は深緑だったようにも思いますが、全国的に似たような会社が多いという感じのトラックでした。
会社案内 - 池田運輸株式会社 http://www.ikeda-unyu.co.jp/company_profile
ネットで調べてみました。従業員数が34名となっているので、思っていたよりずいぶん小さい会社だったようです。福岡営業所の所在地が、みやま市高田町となっています。営業所は長野にもあるようで、日栄運送に似ていると思いました。
日栄運送については、以前、ネットで調べたことがありました。一年以上前になるかと思いますが、その時調べたことも、頭には残っていません。以前、大手以外では金沢市近郊で最も待遇の良い運送会社だとも聞いていました。昭和の終わり頃のことです。
日栄運送について調べても、求人情報の類が殆どで、トラックの保有台数、従業員数、営業所の数もわかりませんでした。昭和の時代と同じ場所に会社があるようですが、近くに水田が多かったあの辺りも、現在は石川県庁の近くにもなって、以前の原型をとどめないほど、様変わりしているように思います。
昭和59年頃は、金沢港に向かうのに、金石街道は通らず、金沢西高校の前から水田が広がる田んぼ道を通っていました。金沢港の前の通りに出る手前の集落の中に、日栄運送の会社がありました。
そういえば、と思い出したのですが、山三青果の定期便が始まる少し前、九州から東京方面に青果物を運び、その帰り荷として館林市など埼玉と群馬の県境付近の2,3箇所から胡瓜を積み込んだことがあり、それを池田運輸の仕事と聞いていたように思います。
いずれにせよ、日栄運送の金沢市場輸送に対する怒りは相当なものであったと思います。日栄運送には、番頭のような年配の人がいて、ちょくちょくと金沢市場輸送の事務所に顔を出していたのですが、その人が思い詰めたような表情で怒りを蓄えているさまを、私はたまたま見かける機会があったからです。
金沢市場輸送に対してと言うよりは、配車係の本恒夫個人に対する遺恨であったとも思います。内容は忘れていますが、それらしい話をいくつか耳にしていました。
日栄運送も、市場急配センターの前身である金沢市場輸送の市内配達に、2トン車を1台は参加させていたと思います。石川日通、小林運送と同じで、いずれも黄緑に黄色のラインが入ったデザインの2トン車だったと記憶しています。鷺富運送か、松任市の運送会社も一社、参加をしていたと思います。
本恒夫は、若いときから長く富山市内で水商売を経営していたと話していました。普段の言葉遣いも明らかな富山弁でした。金沢市の出身で少年時代も金沢にいたと話していましたが、それにしては富山弁が抜けないものかと、ときどき不思議に思っていました。
金沢弁も年配者ほど、独特の強いアクセントがありましたが、それに近いものを本恒夫との会話から感じることは、一度もありませんでした。
富山で長く住んだ後は、静岡でサラ金の仕事を始め、御殿のような家を構えるほど儲けたと自慢話をしていました。清水市などとの合併前の静岡市のことだと思いますが、街の規模などを計算し、静岡市を選んでサラ金の仕事を始めたとも話していました。
そして大きな相手を詐欺にかけ、指名手配となって金沢に逃げ、金沢市場輸送で長距離の仕事をしている時に逮捕され、1年ほど服役をしたと話していました。
身元引受人となり出所に出迎えに来たのも、金沢市場輸送の社長だった被告訴人竹沢俊寿だと話していましたが、恩義を感じるような話は不思議となかったです。
懲役1年というのも、当時は他に聞いたことがなく、そんなに短い刑期が本当にあるのか、少々疑問に思っていたのですが、あるいは1年半ぐらいかもしれません。静岡刑務所とも聞いたように思いますが、後に初犯刑務所だと知ったので、事実としての信憑性は高そうに思います。
福井刑務所では、本恒夫が富山でヤクザをしていたような話も聞いていましたが、真偽の程は不明です。はっきりしていることは、地元としか思えない富山弁を話していたことです。富山の繁華街で飲み屋をしていたことは、金沢市場輸送の運転手になった金山さんからも聞いていました。
本恒夫は、昭和59年の時点で、金沢市場輸送で最も長い大型の長距離運転手だと聞いていました。それでも7年か、8年という話でした。鮮魚の仕事で、重量オーバーも多かったので、免許の点数のことでも長続きが難しい仕事だったのだと思います。
本恒夫は、以前、被告訴人本恒夫と表記していました。被告訴人東渡好信との接点を含め事件の鍵を握る人物であり、捜査対象として必要不可欠の人物ですが、私の記憶も薄れており、殺人未遂が親告罪でもないので、とりあえず被告訴人というのを、今は外して書いています。
時刻は、10月10日11時19分です。また、数日の間、中断をしていたと思いますが、いろいろと出来事や発見があって、整理をつけがたい状態にもなっていました。
この小項目では、栃木県宇都宮市の退職自衛官による連続爆発爆死事件を中心にとりあげるつもりでいましたが、他に色々と出てきて集中して取り組むことが出来なくなってしまいました。事件に関する情報は、まとめサイトのご紹介などしていると思います。
離婚裁判に不満があって、爆発事件を起こし自殺したということのようですが、探しても見つかりにくい情報かもしれないので、指摘をしておきたいのは、妻側の代理人となった弁護士が元検事の女性弁護士で、今市女児殺害事件における被害者側の弁護士ということです。
法律で刑事事件の被害者参加制度が出来て、弁護士がつくようになったと聞きますが、最近は、その手の情報をほとんど見かけず、全般的に、事件に関わる弁護士がメディアで表に出てくることも格段に少なくなったように感じています。
刑事事件の報道も近年、様変わりをしてきたように感じています。森友学園、加世学園問題から現在の衆議院解散総選挙、北朝鮮のミサイル問題などに報道の時間が割かれたこともあるかと思いますが、なにか視聴者のニーズの変化も反映されているように感じられます。
一方で、警察の一方的な判断と公表がそのまま通用し、疑問の声というのも聞こえてはきません。モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)らが「リーク」などと口汚く罵ってきた効果が浸透しているのかと考えることもあります。
2017年10月10日11時45分の登録: REGEXP:”リーク”/モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)(@motoken_tw)のツイートの記録(2010-09-04〜2017-09-09/2017年10月10日11時45分・53件) http://hirono2014sk.blogspot.com/2017/10/regexpmotokentw2010-09-042017-09.html
このリークという言葉の使い方は、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)が独自に広めたものではないかと考えることがあります。もともとは密告という意味だと普通に思っていたので、警察の非公式の情報公表が、リークというモトケンこと矢部善朗弁護士の用法には違和感がありました。
このモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)による情報の独占意識の強さは、非弁絶対殺すマン、などとも呼ばれた深澤諭史弁護士の弁護士業務の独占性に対する強い意識と、共通してものを感じますが、どちらも裏返せば、国民の自由や知る権利を阻害する重大要因だととらえています。
その排他的独占性の強さは、独自の論理的価値観と相俟って、危険な宗教性を強く感じさせるものです。「神様の目線からふざけたやつ」という視点で、私は彼らを見つめ続け、正確な資料としての記録を残し、人類で共有することを常に心掛けてきました。
それでは、本日の新たな発見を交え、次に移りたいと思います。
***<<2017-10-10(火曜日)12:09_[これまでの記述範囲の終了時刻]<<***
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